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生きかたのこと 8

「生きかたのこと」part 8 は、05年冬から06年春にかけて書いたものを
集めてみました。


◇ 自分の軸

 ここ何年か、プライベートに自分の軸足を移している。
 しごとをしていないわけではないけど、前に書いたように、
 自分−しごと=の解の部分に気を配っている。

 プライベートに軸足を移すと、何かこころに余裕が出てきたと同時に、
 自分の軸がはっきりしてきたように思う。

 自分の軸を、内に秘めてがんばってる人も多いと思う。
 だけど、僕は、人と話しながら、自分の軸を固めていくタイプだ。

 自分の軸がぶれなくなってきたおかげで、判断に迷うことも少なく
 なってきた。 とは言え、考えが固定化してしまったわけではない。
 かえって、自由に発想できるようになったと思う。
 根っこの部分がぶれないので、応用が効く、と言えばいいのだろうか。
 (ちょっと、生意気ですけど・・・)

 逆説的に聞こえるかもしれないけど、自分の軸がちゃんと定まると、
 かえって、自然体でいられるのではないかなあ。


◇ 発想の転換

 時には発想の転換がたいせつだということは、みんなわかってると思う。
 でも、忙しいときや疲れてるときって、なかなかできないですよね。
 とは言え、発想の転換って、ほんとは、そういう時にこそ必要
 なんだと思う。

 突然ですが、みなさん、セカチュー(「世界の中心で、愛をさけぶ」)は、
 ごぞんじですよね? セカチューの作者は、片山 恭一という人
 なのだけど、この人、単なるロマンチストではなくて、おもしろい
 考えを持ってるんです。

 僕は、彼が書いたエッセイ「考える元気」という本が好きで
 時々読み返すんだけど、発想の転換についてこんなことが
 書かれています。

 ・学校の授業で戦争の悲惨さを教えるはたいせつだけど、
  それだけでは足りない。倫理的な呪縛を和らげることも
  たいせつ。戦争する暇もないくらい楽しいことを考ようと
  切り口を変えてみることも必要。

 ・「人を差別するのはよくない」と言うのもいいが、人は
  好きな人にひどいことをしない。だから「好きな人をたくさん
  つくろう」と考えてみる。

 ↑みたいな感じです。 

 ちょっと、見方を変えるだけで、ブレイクスルーが見つかる
 ことってありますよね。
 というわけで。 発想の転換にはいつも気をつけています。
 変なネガティブスパイラルに入らないために。
 自分のこころのために。


◇ 流れ

 流れに乗った生きかたをしたい、といつも思っている。
 流れというのは、自分の運命とか自然な人生の流れのこと。

 知らず知らずのうちに、流れに逆らっているときや、
 流れにうまく乗れないときは、気持ちばかりがあせる。
 もがいて、こころが弱くなる。 短気になる。
 自然(花や空など)に目が行かなくなる。 
 まわりへの感謝の気持ちが薄れる。
 僕の場合、視野が狭くなったときに、よく流れから逸脱する。

 いかんいかんと思って、ラクに構えて、自分とまわりを俯瞰すると、
 いつの間にか、流れに戻ってたりする。
 こころのスピードが少しだけゆるやかになって、ここちよくなる。
 でも、いい流れに戻る瞬間に気づくことは少ない。
 そこが、また、おもしろい。

 流れに乗れるのは、自然体のとき。
 とは言え、何もしないで、運を天にまかせる、というのではない。
 自分の内なる声とか、直感のまま、進んだ結果、流れにうまく
 乗れるときがある。
 やりたいこととやるべきことが一致するのは、そういうとき。
 かと言って、流れを見つけようと躍起になっても、見つかるものではない。

 うまくいくときって、羽を動かさずに空に浮かんでいる鳥や
 進みたい方向の後ろから帆に風をいっぱい受けて進むヨット
 みたいなものだと思う。

 何も考えないわけではないけど、考えすぎてもいけない。
 気持ちをラクにして、毎日を生きていると、流れは僕たちを
 さらに高みへと導いてくれる。


◇ 逆転の発想

 最近、逆転の発想にふたつ出会った。

 その1:知り合いの人の話

 「人生を楽しむために何かをするんだと思う?」
 「ええ、そうだと思いますよ、ふつう」と僕。
 「うん。でも、楽しむために生命を与えられ、人生があるんだ
  と考えた方がすてきだと思わない?」

 なるほどね。 確かにその方がチャーミングな考えだと思った。

 その2:最近読んだ本(伊坂 幸太郎著「砂漠」)の一節

 「たとえばね、手負いの鹿が目の前にいるとしますよね。
  脚折れてるんですよ。
  で、腹を空かせたチーターが現れますよね。
  襲われそうですよね。
  実際、この間観たテレビ番組でやってましたけどね、
  その時、その場にいた女性アナウンサーが、涙を浮かべて
  こう言ったんですよ。
  『これが野生の厳しさですね。助けたいけれど、それは
  野生のルールを破ることになっちゃいますから』なんてね。
  助けりゃいいんですよ、そんなの。
  何様なんですか、野生の何を知ってるんですか。
  言い訳ですよ、言い訳。
  自分が襲われたら、拳銃使ってでも、チーターを殺すくせに、
  鹿は見殺しですよ。
 「でも、チーターと鹿のどっちを救うべきか、っていうのは
  難しい問題だよね」
 「それはその時、可哀相に見えた方ですよ」

 どうですか、これ↑?
 僕には、かなり新鮮な考えにうつったんですけど。

 別に、くどくど感想を述べる気はありません。
 ただね。 時には、視点を変えてみることも必要だな。
 視点を変えてみるのも、新鮮でおもしろいな。と思ったわけです。


◇ がんばらない

 最近ね。 無理しないんですよ。

 あ。 別に、がんばってないわけじゃないんですよ。
 やるときは、やります(笑)。
 だけど、がんばりすぎないですね。

 何かに熱中してないわけでもないんですよ。
 けっこう凝り性なとこあるので、凝るときは凝ってます(笑)。

 欲がなくなったわけでもありません。
 でも、欲の種類は変わったかもしれませんね。

 意識して、がんばりすぎないわけでもないし、さぼりグセが
 ついたわけでもないんです。
 なんていうのかな。 こころとからだが、自然に、そんなふうに
 コントロールしてるみたいです。

 だから、僕も、自分にまかせています。
 よく言うと、自然体と言うのでしょうか。
 悪く言うと、なすがまま?

 でもね。 そのおかげで、こころもからだも健康みたいです。
 それが、ここちよいのです。


◇ 大人

 昔は、社会に出る前の大学4年間を大人になる前の猶予期間、
 すなわち、モラトリアムと呼んだ。

 けれども、最近は、社会人になっても、モラトリアムの終わらない
 人が多い、と聞いた。 一説では、最近は、モラトリアムが終わるのは、
 30歳くらいということらしい。

 なるほどねえ。 そう言えば、「大人」ということばをイメージする
 年齢も、昔に比べて、上になったような気がする。
 最近は、成人=大人という意味で使うことはまずない。
 大人=経験があり、違いがわかる人。分別のある人。
 みたいな使われ方が多いのではないかな。 

 だから、30歳の人が大人と言われても、少し気が引けたり、
 こそばゆい感じがするんじゃないかな。
 逆に、40歳の人が大人と言われたら、ちょっとうれしいような、
 でも、自分も歳とったな、という複雑な気持ちになったりしないのかな。

 なんてことを、休日の夜、ふと思ったんだけど、どうでしょうか?
 そう思ったきっかけは、今日一日、とうてい大人向きとは思えない
 DVDとか本をおもしろがってた自分がいたからですけど。


◇ 変わり続けること

 昨日の夜、いつもの通り「情熱大陸」を見た。
 ゆうべは、Yuming(ユーミン)の回。

 ユーミンは、1975年にデビューしたそうな。
 それ以来、時代にあわせて変わり続けてきた。

 その結果、 変わり続けているから、変わらない。
 というふうに見えるのだそうだ。

 なるほどね。 常に時代と同じスピードで変化していたら、
 変わらないように見えるよね、確かに。
 だから、50歳を過ぎても、さっそうとしてるんだ。かっこいいんだ。

 番組の最後で、履いているブーツを「かっこいいですね」と
 ほめられて、

 「だって、ユーミンだもん。でも、51」と言って、彼女が笑った。

 このことばもよかったなあ。

 変わり続けるのは、たいへんだと思う。
 リスクを覚悟で新しい自分を模索するのは、エネルギーと勇気が
 いることだと思う。

 でも、変わらない、と思われるくらい、時代と同じスピードで
 駆け抜けるのも、一度しかない人生、楽しいだろうな。

 僕も、自分の持ち味を損なわずに、もう少し、変化のスピード感が
 ほしいな、と思った夜でした。


◇ まだ運は残っている

 時にはしごとでバタバタするけど、たいていは、いつも、結果オーライ。
 もちろん頭も気もつかうし、努力しているので、なりゆきまかせの
 「結果オーライ」ではないのだけど、なぜか、いつも最後は
 結果オーライになることが多い。

 でも、まあ、冷静に考えてみたら、しごとで「超深刻」っていう事態って
 そうそうあるわけじゃない。
 僕は(自分で言うのもなんだけど)、しごとはポジティブなこころで
 しているので、落ち込むこともあんまりない。

 何かトラブルがあったとしても、全滅にならない限り、
 「まだまだぁ。 運は残っているよ」と、自分だけじゃなく、
 まわりのスタッフにも口にする。 決して、運まかせにしてる、
 という意味じゃないんだけど、少しでも運が残っているうちは
 人事を尽くせば、天命も変わるよ、というスタンス。

 ↑と同じ意味で、こういうことわざも好きです。
 「失ったものを数えるな。 残っているものを数えろ」

 ま、しごとだけじゃなく、プライベートも、同じですよね。


◇ ちがい

 「同じ」ということは、人と人の距離を縮める。

 同じ趣味。 同じドラマを観ている。 同じ作家が好き。
 同じアーティストが好き。 同じ学校を卒業した。
 同じ歳だとわかった。 同じ県の出身だと知った。 
 笑いのツボが同じ。 価値観が同じ。 などなど。

 人と人の結びつきが強くなるきっかけは、「同じ」の発見だったり、
 「同じ」が増えていったり、深くなることが多いと思う。

 じゃあ、逆に、「ちがい」は、どうか?

 「ちがい」は無関心で終わることもあるし、時には反発に発展する
 こともある。

 僕も、前は、そうだった。 
 「あ。僕とは違うんだ」と、その人への関心が薄れていった。

 だけど、ある時から「ちがい」に耳を傾けられるようになった。
 「ちがい」を認めたり、時には、楽しめるようになってきた。
 「ちがい」から学ぶことだって、多くなった。
 「同じ」がないからと言って、なかよくなれないわけではない、
 というあたりまえのこともわかるようになってきた。
 (ちょっと、遅きに失した感はあるけれど・・・)

 ちょっとは、大人になったということなのかな?


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